2020.07.13 更新
手縫いサッカーボールの衝撃とトライアングルの交流
どーも 団長の佐藤勇一です‥№8
『手縫いサッカーボールの衝撃とトライアングルの交流』
岩手県紫波町の日詰少年団は、現在は紫波FCとして活動していますが、最近はなかなか交流ができないでおります。紫波町は、山間部と海岸部を結ぶ交通の要衝となっているところです。ラフランスやブドウ、なしなどの果物がたくさん生産されていて、県内外から多くの来町者がおります。近年は岩手県フットボールセンターもできて、岩手県のサッカー処となっております。br/>
日詰少年団とのお付き合いは、かれこれ20年ほど続きました。小田中監督が退いてからは途切れてしまいましたが、ことの初めは、昭和52年8月上旬ころです。ライバルとなっていた明徳チームさんから「日詰という岩手県で強いチームが秋田に来るので、川添も来ないか」とうお誘いでした。調べてみると、その年に全国大会ベスト四というチームであることを知ったのです。
そして、会場の山王中学校グランドに行くと、オレンジ色のユニホームのチームがいて、きびきびとした元気な先生がいるな・・というのが第一印象でした。選手たちの体も大きくてオレンジ色がさらに大きく見えたのでしょうか・・それが日詰少年団でした。
試合をさせてもらって「おかしいなぁー、おかしいなぁー」と思うことがありました。何がおかしいかというと、川添のキックがぜんぜん飛ばないのです。そうしているうちに試合終了となり、8-0くらいのスコアーでみじめな敗戦となったのでした。
実力差は当然あったのですが、それに加えてボールが手縫いボールだったのです。当時秋田県内は張り皮ボールを使用していたので、まともに飛ばない原因がわかりました。一度も使ったことのない手縫いボールの衝撃は今も忘れられません。
当時の日詰少年団の監督は、以内(にたない)氏、その指導のすばらしさ、的確さにびっくりさせられたものです。交流をするならこのチームとばかり、「しょししびもしらねで・・」(秋田弁で恥ずかしさも知らないで・・)「今度伺いますので、よろしいでしょうか」が始まりでした。交流が始まるようになってからは、学ぶことばかりで、もう一人の指導者である葛西先生からは鋼板多色刷りの作品を川添の子供たちが卒業記念にいただいておりました。私も作品をいただき、額に入れて今も飾っています。
日詰少年団とともに、トライアングルの交流をしていたのが青森県五戸市の五戸すずかけ少年団でした。毎年夏休みに入ると、岩手県紫波町に合宿するのですが、五戸すずかけチームも青森から毎年来ていました。三チームと地元のチームでとことん試合を重ねて、その足で日詰少年団と五戸すずかけチームも一緒に五戸に向かうのです。会場を青森に移しての二次合宿のようなものでした。当時の五戸すずかけチームも、全国大会に出場していました。
五戸市は馬肉とリンゴの産地で、帰りに一升瓶に入ったリンゴジュースをいただいてきました。手倉森誠・浩氏が五戸すずかけにいた記憶があります。昨年、その五戸すずかけチームがスポルティフタウンに来て交流試合をすることができました。監督さんも選手たちも川添と交流した歴史を知らなかったので、お話をさせてもらいました。
また、3.4年前に、紫波FCとの交流を岩手県フットボールセンターで行いましたが、指導者が小田中監督の教え子でした。いろいろな出会いが指導者を成長させてくれます。固定概念にとらわれず、素直に学ぶ姿勢こそが大事なことであり、たくさんの経験がのちのち生きてくるように思えてなりません。
『手縫いサッカーボールの衝撃とトライアングルの交流』
岩手県紫波町の日詰少年団は、現在は紫波FCとして活動していますが、最近はなかなか交流ができないでおります。紫波町は、山間部と海岸部を結ぶ交通の要衝となっているところです。ラフランスやブドウ、なしなどの果物がたくさん生産されていて、県内外から多くの来町者がおります。近年は岩手県フットボールセンターもできて、岩手県のサッカー処となっております。br/>
日詰少年団とのお付き合いは、かれこれ20年ほど続きました。小田中監督が退いてからは途切れてしまいましたが、ことの初めは、昭和52年8月上旬ころです。ライバルとなっていた明徳チームさんから「日詰という岩手県で強いチームが秋田に来るので、川添も来ないか」とうお誘いでした。調べてみると、その年に全国大会ベスト四というチームであることを知ったのです。
そして、会場の山王中学校グランドに行くと、オレンジ色のユニホームのチームがいて、きびきびとした元気な先生がいるな・・というのが第一印象でした。選手たちの体も大きくてオレンジ色がさらに大きく見えたのでしょうか・・それが日詰少年団でした。
試合をさせてもらって「おかしいなぁー、おかしいなぁー」と思うことがありました。何がおかしいかというと、川添のキックがぜんぜん飛ばないのです。そうしているうちに試合終了となり、8-0くらいのスコアーでみじめな敗戦となったのでした。
実力差は当然あったのですが、それに加えてボールが手縫いボールだったのです。当時秋田県内は張り皮ボールを使用していたので、まともに飛ばない原因がわかりました。一度も使ったことのない手縫いボールの衝撃は今も忘れられません。
当時の日詰少年団の監督は、以内(にたない)氏、その指導のすばらしさ、的確さにびっくりさせられたものです。交流をするならこのチームとばかり、「しょししびもしらねで・・」(秋田弁で恥ずかしさも知らないで・・)「今度伺いますので、よろしいでしょうか」が始まりでした。交流が始まるようになってからは、学ぶことばかりで、もう一人の指導者である葛西先生からは鋼板多色刷りの作品を川添の子供たちが卒業記念にいただいておりました。私も作品をいただき、額に入れて今も飾っています。
日詰少年団とともに、トライアングルの交流をしていたのが青森県五戸市の五戸すずかけ少年団でした。毎年夏休みに入ると、岩手県紫波町に合宿するのですが、五戸すずかけチームも青森から毎年来ていました。三チームと地元のチームでとことん試合を重ねて、その足で日詰少年団と五戸すずかけチームも一緒に五戸に向かうのです。会場を青森に移しての二次合宿のようなものでした。当時の五戸すずかけチームも、全国大会に出場していました。
五戸市は馬肉とリンゴの産地で、帰りに一升瓶に入ったリンゴジュースをいただいてきました。手倉森誠・浩氏が五戸すずかけにいた記憶があります。昨年、その五戸すずかけチームがスポルティフタウンに来て交流試合をすることができました。監督さんも選手たちも川添と交流した歴史を知らなかったので、お話をさせてもらいました。
また、3.4年前に、紫波FCとの交流を岩手県フットボールセンターで行いましたが、指導者が小田中監督の教え子でした。いろいろな出会いが指導者を成長させてくれます。固定概念にとらわれず、素直に学ぶ姿勢こそが大事なことであり、たくさんの経験がのちのち生きてくるように思えてなりません。