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2020.08.16 更新

お盆のよもやま話・・②

どーも 団長の佐藤勇一です‥№41

『お盆のよもやま話・・②』
お盆が過ぎると、百姓は大根、白菜、キャベツの種まき作業が始まります。種まきは、タイミングが大事で、雨がいつ降るかを予測して、その前日に作業を行います。夏は雨の日が少なく、晴天が続くので、畑は乾燥しきっていますので、雨は自然の恵みとなります。その土地の気候風土によって、多少は作業の時期は異なるものの、野菜の品種によって植え付け作業には時期があります。

ところが、どうしても秋田で育たないものもあります。以前、雄和町サイクリングターミナルの支配人をしていた頃、北九州市にお邪魔した時、フグのお刺身が料理に出されました。そのタレに太さが1mmの極細のネギが入っています。お願いして秋田でも育ててみようと「苗」をいただいてきて、植え付けしてみましたが、残念ながら失敗でした。後でそのネギの名前を調べてみたら「ふくネギ」または「安岡ネギ」という品種であることがわかりました。「安岡」とは、山口県下関市の安岡地域で主につくられているとのことです。気候風土によって育たない作物もあるということをこの時知らされました。

雄和町サイクリングターミナルの支配人をしていた時期は、年に2回全国協議会というものがあって、春は南の県で、秋は北の県で開催されていました。その会議で北海道士別市の鈴木さんと知り合って、士別市のジンギスカンを秋田に持ってこようということになって零下25℃の真冬に北海道士別市を訪問しました。その夜打ち合わせ会が盛り上がり、二日酔いでぐったりしていたところ、朝から営業している「五十番」というラーメン屋さんに連れて行ってもらいました。朝から多くのお客さんが来ています。そのラーメンのおいしいこと、「よし、このラーメンも秋田に持ってこよう・・」とジンギスカンの導入前にラーメンの話が進みました。ラーメンは、店主である三野さんと奥さん、お弟子さんの三名に来ていただて、10日間職員に作り方を伝授してもらいました。大変な来客となり、連日レストランがコッタ返しになりました。

春になると、ラーメンの次はジンギスカンを開業することになりました。準備期間が少しありましたので、いろいろなことを考えました。鉄板で焼くのではおいしくないと思い工夫をしたことは、七輪を使い炭火で焼こうという発想です。鍋も南部鉄器製造会社に従来のジンギスカン鍋に縦筋に空間をつける特注鍋を注文しました。これによって炭火での自火焼きのジンギスカン料理を提供できることになりました。ジンギスカンガーデンとラーメンは大盛況で、あるお客さんの話では、仁井田まで車の渋滞が続いたそうです。

ジンギスカンとラーメンの次は、「ジャンボ迷路」に着手をしました。秋田ステージの常務を務められていた鈴木さんからの話があってトントン拍子で話が進みました。鈴木さんは、雄和種沢の出身で、アイデアに満ち溢れている方でした。実行力があって、難しい問題が生じても「ニコニコとわかりました」といつも笑顔で対応する人でした。見てみたい所があれば、すぐに行動し、全国をかけめくっておりました。その後、鈴木さんとは、「忍者屋敷」などさまざまな連携をしました。鈴木さんには、たくさんのことを学ぶことができました。

このような経営状態で、毎日が夢のように過ぎていきました。売り上げも1億円ほどになっていましたので、無我夢中で頑張ってきて、振り返ると「ほっと」したことを覚えています。

秋田空港が雄和町に開港したのは、昭和56年6月26日でした。当時は、空港開港で町の経済効果はどのくらい、とかどんな効果があるのか、という論議が町議会や町民の間でありました。
その当時は、広報担当で広報誌を毎月発行したり、「町内めぐり」という企画で、町民の皆さんを秋田空港の工事現場や周辺の状況を見てもらうバスを運行も担当していました。半年前くらいからの企画でしたので、空港工事もどんどん進んでいました。週に3回くらいのペースで午前9時30分頃に出発し、午後2時頃までのツアーでした。その都度、空港管理事務所に連絡をして、当日はバス内での案内と説明をして、目の回る忙しさでした。広報誌の編集も一人で行っていましたので、取材、出筆、校正など想像絶する働き方でした。「町内めぐり」の合間に、取材して夜に原稿書き、深夜の2時、3時は普通でした。校正は妻にも手伝ってもらって24ページ+行事版を発行するともう次月の準備にかかります。

「ゆー、参考にして考えてけれ・・」と工藤町長が私の机にきて、何枚かの資料を置いていきました。町長が「ゆー」といってくるときは、困って何かを考えてもらいたい時と、今だから話しますが、あいさつ原稿を書いてもらいたい時でした。

そして空港開港に向けて「ふるさと村」企画か出来上がります。空港開港まで後1週間ほどの頃、朝日新聞の記者が取材に訪れます。当時、各新聞社の取材や話題提供も広報担当の仕事でしたので、その時期記者の対応に追われていました。「ふるさと村」のパンフレットのゲラ刷りを机に置いていたのを朝日新聞の記者が見て、「これ何ですか・・」と聞くので「秋田空港開港記念事業です」と応えます。「これ新聞に書いていいですか」というので、「よろしくお願いします」と原稿を渡しました。

秋田空港開港の3日前、朝日新聞の全国版に「秋田空港開港記念事業・ふるさと村」村民募集という記事が載りました。朝出勤すると、早く来ていた町役場職員が血相を変えて、必死で電話応対をしています。「なんだべ」と聞くとふるさと村の会員になりたいという電話でした。とにかく役場の電話が鳴りっぱなしで回線がパンクするくらいでした。500人を超えたところで、工藤町長が「そろそろえぐねが・・」とお断りの対応となりました。

「ふるさと村」は会費を納めると、年3回町の特産物や山菜などを航空便で送るほか、リンゴの木の一本契約、民宿の斡旋、年一回の里帰りツアーで特別村民として雄和を訪問できるなどの内容でした。この事業によって全国に物産直送の事業があちこちで行われるようになりました。

町広報担当で「情報」を学び、サイクリングターミナルで「経営」を学び、ふるさと村で「マーケティング」を学びました。実践者でなければ知りえないことがまだ山ほどあります。これらの実践を通してお金では買えないこれらの経験が今も私のベースになっています。