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2020.07.24 更新

現実は常に理想を抑え込んでいる怪物

どーも 団長の佐藤勇一です‥№19

『現実は常に理想を抑え込んでいる怪物』
昭和61年、雄和中学校に待望のサッカー部ができたことは非常にうれしい出来事でした。それまでは、中学校にサッカー部をつくってほしいと父母が中心となってお願いしてきましたが、なかなか実現しませんでした。サッカーをやりたい子供たちがいるのに、やれないという、なんとも教育とは難しいものだと思っていました。

当時の雄和中学校は、全員が部に入らなければいけない決まりがありました。入学すると第一希望、第二希望という入部希望調査があって、男子は野球、軟式テニス、卓球、吹奏楽、女子はバレーボール、バスケットボール、軟式テニス、卓球、吹奏楽の中から選ばなくてはなりません。

やりたいスポーツができない苦痛、やりたくないスポーツやらなければならない苦痛、心が痛む年が数年続きました。学校の考え方は、限られた人数の中で、限られた部を維持するためには難しいということでした。特に野球部に入る人数が一時急激に減少していたことも学校としては危惧していたように思えます。それまで、川添少年団の子供たちは、中学校では卓球部や軟式テニス部などに所属していましたが、高校ではサッカー部に入って高校サッカー選手権大会全国大会やインターハイなどで活躍する選手もたくさんおりました。

現実というものは、常に理想を抑え込んでいる怪物と思っていたのですが、時代の流れ、人の結束力、情熱には勝てないことを思うことが起きました。父母の皆さんの運動が実り、雄和中学校に待望のサッカー部ができたのでした。

練習場は、野球部の練習しているライトの後ろの狭い場所でした。監督はスポーツがあまり得意ではない先生でしたので、選手たちが練習のメニューやポジションを決めていました 。時々先生から指導に来てほしいと言われ、少年団の休みの時は顔を出していました。

創部二年目の昭和62年は、なんと全県優勝という快挙を成し遂げたのです。佐藤善之や丸山司、堀井鏡平選手などが大活躍して、全国大会をめざして仙台市で開催された東北大会に臨みました。私は仕事の都合で行けませんでしたが、二勝できれば全国への切符を手にすることができるのです。初日は快勝できたという連絡をもらい、後一勝と期待をしたことを覚えています。

次の日は、仙台市の蒲町中学校との代表決定戦でした。結果は残念ながらの惜敗との連絡が入ったのです。後に選手から話を聞くと、蒲町中学校には、清水FCにいた土橋選手が転校していていたということでした。土橋選手とは4年前に川添小グランドで対戦していたのです。