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2020.07.19 更新

川添小グランドに清水FCが来た!

どーも 団長の佐藤勇一です‥№14

『川添小グランドに清水FCが来た』
昭和58年に6年生が5人のチームがよもやの優勝で、二回目の全国大会出場を果たした川添少年団でしたが、全国大会では清水FCが優勝しました。その試合を観戦してどうしたらこんなチームができるのだろう、と思ったものです。清水FCはご存じのように、静岡県清水市の選抜チームです。

夏が過ぎると、新人チームに切り替わります。親の会のメンバーも替わり、すぐに「私の夢を叶えてほしい・・川添に清水FCを呼びたいのです」と新会長になった池田さんにお願いしました。全国大会を経験した5年生が多かったことやすばらしい選手が揃っていたので、次の年(昭和59年)は「絶対全国でベスト四までは・・」と意気込んでいた頃です。新人チームのメンバーは、佐藤善之と丸山司はいとこで素晴らしい選手でした。皆川正や柏谷誠、柏谷功、柏谷誠など雄和町芝野の選手が多かった気がします。スポルティフ秋田のコーチを務めてくれた堀井鏡平もDFとして活躍しました。4年生の長谷川大も頑張っていました。

それでは11月頃に清水FCに来てもらおう・・という話が池田会長からあったのです。それからというもの、清水FC監督の堀田氏に連絡をして、話がトントン拍子に進みました。
清水FCが飛行機で秋田空港に降り立ちました。その時は、ビートルズが日本に来た時のような感じでした。秋田空港は、昭和56年6月に雄和町に開港していましたので、便利になっていました。さっそく川添小学校グランドで、川添少年団と清水FCの試合が始まりました。グランドの土手には、たくさんの地元の人たちが観戦に来てくれて応援してもらったことを思い出しております。試合結果は、清水FCが長旅で疲れていたこともあって接戦となりました。

清水FCの選手は、全員川添の選手の家に民泊でした。当時の清水FCのメンバーには、マリノスで活躍する山田選手や土橋選手、名波選手などすごい選手がおりました。きりたんぽ、しょっつるなどの料理を食べてもらいました。次の日は秋田選抜チームも加わり、試合をしたことを今でも鮮明に覚えています。

年が明けて昭和59年、今年こそはと意気込んで、春休みには関東遠征を行いました。秋田駅から夜行の寝台列車でまず浦和に行きました。FC浦和と試合してもらうためです。当時のFC浦和は、全国大会常連で、浦和市の選抜チームでした。当時は、全国の少年サッカーチームは、清水FCやFC浦和のように市の選抜チームが全国制覇をめざしている時代でした。そして、全国大会の上位も選抜チームが独占している時代で、その中でも清水FCと浦和FCは毎年ずば抜けた力を持っていました。

関東遠征の目的は、全国の強豪チームが参加する、船橋サッカーフェスタバルへの参加だったのですが、その前に折角関東に行くのだから、途中のFC浦和と対戦してみたいと、お願いをしたのでした。汽車を降りて、試合会場まで乗り合いバスで行ったような記憶があります。試合が始まり、相手の監督さんの声がだんだん高くなってきます。なんと川添が先取点を入れたのです。その後も攻め続けて勝ちゲームでした。終わって「いいチームですね」と浦和の監督さんに言葉をかけてもらいました。

船橋に入ると、たくさんの強豪チームが来ていました。関東のグランドは、地面が硬いところが多かったような記憶があります。スパイクでは滑って転倒する選手が多くおりました。このフェスティバルで全国には、いろいろなスタイルのチームがあって、個性のある選手がたくさんいるものだと感じてきました。印象に残っているのは、最終戦がPKとなり、24-23だったかなぁ・・審判が忘れるくらいのスコアだったことを覚えています。
本番の全国大会の秋田県大会が始まりました。途中苦戦もありましたが、決勝進出となりました。対戦相手は西目少年団でした。なかなか得点できなく、ゴールが決まったと思った瞬間、戻りオフサイドの判定で0-0のまま延長戦、再延長戦まで進みます。再延長の終盤、ゴール近くでフをしてしまいフリーキック。ボールが糸を引いたようにゴールに吸い込まれました・・よもやの優勝からよもやの準優勝となったのでした。

当時は、東北各県の準優勝と三位チームが出場して、東北大会が開かれていました。その大会では優勝することができました。秋の魁星旗大会も優勝しています。残念ながら全日本だけは取れませんでした。

今思うと、私が自信過剰になってしまっていたことが原因でした。どこかに隙があったのです。こうした教訓と経験を生かして、子供たちを育成しております。