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2020.07.07 更新

「やってやれないことはない・・やれないことがあるから頑張れる」

どーも 団長の佐藤勇一です‥№3

『やってやれないことはない・・やれないことがあるから頑張れる』

初めての全国大会、川添少年団が「努力賞」を受賞。
昭和55年8月初旬、ついに田舎の少年サッカーチームが第4回全日本少年サッカー大会に出場するため、羽田空港に降り立ちました。この年の夏は、ことのほか涼しく、東京多摩市にある「よみうりランド」へは、モノレールと電車を乗り継いで、重い荷物を持って辿り着きました。
※以後、敬称を省略させていただきます。
今でも「あのチームは強かったなぁー」と言われます。当時は11人制でゴールも一般用でした。6年生が9人でしたから、5年生もメンバーに入っていて、バランスのとれていたチームだったと思います。バランスと言えば、斉藤敬と佐々木保の剛柔、高田幸也とGKの酒井達也のちびでかコンビ(表現が悪くて申し訳ない)。池田峰明と柏谷健はマイペース・突進型でした。皆川美見や地主重人は山椒のような存在でした。5年生でも高橋稔はヘッデングが強かったし、佐藤鉄也、佐藤潔宣、斉藤幹夫も個性がありました。

読売ランドでは、読売ヴェルディーが練習をしており、当時のメンバーはラモス、都並、加藤選手たちでした。練習していると遠野高校出身でGKの菊池選手がPK対決をしてくれました。決めたのは誰だったっけ・・佐々木保のように記憶しています。菊池選手は、昨年までグルージャ盛岡の監督をされていました。

開会式が始まり、興奮の中で第一戦がキックオフ、相手は山形県代表の稲穂少年団でした。あれよあれよと得点を重ねて、コーチの伊藤樹悦と「一勝してよかった」と内心ほっとしたことを覚えています。この年は、冷夏であったため、東京の暑さを経験したことのないわがチームにとってはラッキーでもありました。

一チームしか勝ち上がれないリーグ戦をものにするための事実上の決定戦は、四日市少年団との対戦と思っていました。その因縁試合を書き残して、この機会にクラブの子供たちに伝えたいと思っておりました。

人工芝グランドでの試合となった四日市戦。大方の予想は、たかが秋田の田舎チームに何ができる・・、であったと思います。しかし、観衆を沸かせたのは、前半の15分。佐々木保から左に出されたパスを斉藤敬が走り込んでクロス、それを佐藤潔宣が蹴り込んで待望の先取点となりました。が・・主審がゴールを認めるホイッスルを鳴らし、試合再開となる矢先、なんと線審が主審にオフサイドのコール、得点の笛が吹かれたのに判定を覆したのでした。その直後フリーキックから失点を許してしまいました。後半に入り、川添少年団が怒涛の攻撃を仕掛けます。皆川美見のシュートがポストに嫌われたり・・挽回できなかった、その悔しさが今も心に残っています。
この大会の優勝チームはその四日市少年団、川添少年団は「努力賞」を受賞し、斉藤敬が優秀選手に選出されました。

全国大会をめざして頑張ってきたのは、純粋に「この選手、チームを全国の人たちに見てほしい。こんな小学校の単独チームでもこれだけやれるんだ、ということを日本サッカー協会の人たちに見てほしい」という気持ちで励んできたことを思い出します。

やってやれないことはない、けれども、やれないことがあるから人は頑張るんです。このことは人生すべてに通ずることだと思います。サッカーがそれを教えてくれるのです。「サッカーから人生を学ぶ」・・。

【第4回全日本少年サッカー大会の軌跡】
予選リーグ
第一試合 川添 7-0 稲穂(山形県代表)
第二試合 川添 5-1 大根(神奈川県代表)
第三試合 川添 0-2 四日市(三重県代表)
第四試合 川添 3-1 素鶯(愛媛県代表)
第五試合 川添 7-1 高良(沖縄県代表)